【第30回】新人スタッフが本気で選んだ時計ブランド『ジラール・ペルゴ』の歴史について紐解いていきます!part 2

いつもoomiya仙台店のブログをご覧いただき、誠にありがとうございます。

皆様、こんにちは!千葉です⚡️
ここ最近は肌寒くなってきましたね〜!まさにキャンプ日和!
嗚呼、紅葉キャンプ・・炭火で焼いたさんまや芋煮が僕を待ってます。
前回のキャンプから早くも1ヶ月経過してしまいましたが、
あの日は1日中雨が降っていたので、実質ノーカンです。
ここ最近はキャンプに行きたい気持ちを必死に抑えつつ、
キャンプyoutuberの動画ばかり見ておりますが、やっぱり自分でしたい!
そんな事を考えてたらあっという間に10月になってしまいましたが
僕には結婚式の準備があるので、当分お預け喰らっちゃってます。

それはさておき、前回同様に230年以上続く
超老舗ブランド「ジラール・ペルゴ」の歴史をご紹介いたします。
前回の記事にて紹介させていただいた歴史part1はこちらから

「日本初上陸の機械式ブランド」

1875年、フランソワ・ペルゴ、日本の地へ。
日本は幕末の動乱期。鎖国からの脱却後、日本伝統を守りつつも、独立するために
西洋技術や文化を取り入れるというなかなかぶっ飛んでた時代でした。

1861年、マリー・ペルゴの弟でもあるフランソワ・ペルゴ氏により時計文化の参入を試みる。
当時、日本で多く使われていたのはスイス時計とは違い、
不定時法に沿った日の入〜日の出を6等分する和時計。
不定時法というのは江戸時代に用意られた時間区分法のこと。

実用性とはかけ離れた技術を楽しむ西洋時計を取り入れるのは
とても難しいという事で、時計連合会は解散。
むしろ、その解散により、フランソワとしては
時計連合会の活動制約から解放されるきっかけとなりました。
1864年には正式にスイス人という認定の元、F・ペルゴ社を設立。

フランソワ・ペルゴ氏によって日本に初輸入されたレピーヌ懐中時計
特徴として、12時側に「ジラール・ペルゴ」のロゴ入りが入っております。
さらにシルバーケースはギョーシェ彫りが施されており、エナメル文字盤を採用。
完全手彫りによる手巻きムーブメントが内蔵されておりました。
当時から内部機構を観察できるシースルーバックを採用していたそうです。

しかし当時の不定時法に沿わないスイス時計を日本に広めるという問題に直面します。
フランソワ・ペルゴは悩みに悩んだ結果、日本文化や生活習慣に理解を深める事で
日本独自の仕様、仕上げを打ち出していきます。

ゴールドではなく、シルバーを使用したケースやエナメル文字盤など
日本人の渋好みにそって、開発を進めていったと言われております。
瞬く間にフランソワが考案した日本仕様のGPが話題となりました。

1873年には鉄道の誕生により、正確な時を刻む時計は
生活必需品と言われるようになった為、
その架け橋となったのも、フランソワ・ペルゴと言われております。

そしてその成功を独占する事もなく、同業の時計ブランドにも
積極的に提案していった事で、他ブランドによる器用。
それが今のスイス時計を代表するスタイルとなりました。

1877年
フランソワ・ペルゴ 43歳の若さで死去。
彼の亡骸は、横浜外国人基地で眠っております。
スイスから横浜の地に足を運び、異国文化を受け入れながら
自国の時計を日本に初めて持ち込んだ英雄として、今も語り継がれております。

「これぞ、真のマニュファクチュール」

フランソワ・ペルゴが日本とジラール・ペルゴ&スイス時計の架け橋となって以降、
現代でもラ・ショー・ド・フォンにて、自社一貫製造を行っております。
16世紀に建築された歴史的な建造物として認知されております。
その後3回程、大きな火災により全焼してしまったエピソードなどが挙げられますが
時計産業が街全体を再建築した事により、今はリニューアルして
過去のアーカイブなどを展示するミュージアムや、複雑時計などの開発をするアトリエ
量産モデル専用の製造ラインを担うファクトリーなどが集約しているそうです。
(僕もいつか、行ってみたいですね〜!)

最後に。

最後までご覧いただき、誠にありがとうございました。

今回ジラール・ペルゴの記事をご紹介させていただきましたが、
フランソワ・ペルゴ氏がいたから、今のGPには根強い日本人にファンが多いと言っても
過言ではありませんね!また、GPについて「こんな話も知ってます」という方は
是非、店頭にお越しいただき、千葉まで教えていただけますと幸いです🙇‍♂️

現在当店では、「ロレアート」
他「ブリッジ」「ヴィンテージ1945」なども取り扱っております。
是非「千葉」までお問い合わせください。

皆様のご来店、心よりお待ちしております。