日本に渡った初のスイス人時計師 フランソワ・ぺルゴとは?

こんにちは、伊藤です。
先日、ジラール・ぺルゴの研修で東京のソーウィンド ジャパン本社へお邪魔してまいりました!
その際に、横浜へ連れて行っていただきフランソワ・ぺルゴ氏のお墓参りへ。
駅から歩いて5分ほどで、到着したのが外国人墓地。
この中に、フランソワ・ぺルゴ氏のお墓があります。
フランソワ・ぺルゴ(1834年~1877年)とは、ジラール・ぺルゴの創業者、マリー・ぺルゴの弟です。
1847年に父親のアンリ=フランソワ・ぺルゴが無くなってから、時計師になりました。

彼は、1859年4月20日にジラール・ぺルゴ社を代表して主任責任者のロドルフ(ルドルフ)・リンダウと共にスイスを出発し日本へ向かいます。
リンダウは、プロセイン公国(ドイツ北東部とポーランドにまたがる地域を占めていた公国。第一次世界大戦後にドイツの一つの州となりました。)の出身で文才に長けていました。
彼は、在日フランス領時間の招待を受けて江戸に同行します。
一方で、フランソワ・ぺルゴは英国の支配下にあったシンガポールに商館を設立・経営することを検討するために、この地に滞在しました。

1860年10月 フリッツ・ニコレにシンガポール商館を委任し、フランソワ・ぺルゴは、エドワード・シュネルが待つ横浜へ。
フランソワ・ぺルゴは、日本列島に向かうべく許可証の申請に急ぎますが・・・
当時はまだスイスと日本の間には通商貿易を自由に行える協定がありませんでした。
スイス人は日本にすでに進出している国々の特別保護を受けるしか方法がなかった。
ニューヨークに6年間滞在したことがあり、在シンガポール アメリカ領事館の支持を受けフランソワ・ぺルゴは、1860年8月に在横浜アメリカ領事館の保護を受けようとするが叶いませんでした。
最終的には、フランスが保証してくれることになります。

ついに日本へやってきたフランソワ・ぺルゴですが・・・
当時、日本と西洋では時の測り方が全く異なるものだったのです。
日本へやってきたフランソワ・ぺルゴは、大きな壁にいくつも当たり、それを乗り越えていきます。

昔、フランソワ・ぺルゴの商館があった場所へも連れて行っていただきました。
「横濱媽祖廟」商館の面影は全くありませんが、こちらはパワースポットとしても人気の場所だそうです。
フランソワ・ぺルゴの墓石には下記のメッセージが刻まれています。
フランソワ・ぺルゴを追悼して。
スイス国ヌーシャテル州ル・ロックル
1834年6月24日生まれ。
1877年12月18日横浜に眠る。
友人たちより」
同じ場所に、通常なら小さいうちに無くなった子供のために作られる上部の欠けた円柱形の小さな墓がありますが、それが娘の物なのか?彼は結婚していたのか?今日の段階ではまだ何も立証されていません。